聖書のみことば in Mom's Life

慌ただしい子育てライフの中に見つかる神様の恵みをつづる。

完璧な家

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ここ数ヶ月、
引越しのために賃貸のお家を探している。

 

不動産屋さんと連絡を取り
いくつか内見させてもらった。

 

 

 
賃貸料はいいが、
古すぎるお家。

 

場所はいいが、
タバコの臭いがするお家。

 

築年数は若いが、
予算オーバーなお家。

 

お庭は広いが、
リビングが狭いお家。

 


優柔不断な私は、
悩みに悩んでしまう。

 

 

決めようとして、不動産屋さんに電話したら
他の家族に先を越されたりした。


嬉しさもあるけど、凹むことも多々あり。

引越しの困難さをひしひし感じる。

 

 

 

でも、
一つ確かなことは、

この世には完璧な家はきっと見つからない。

でも、

天には完璧な場所が用意されている。

 


私達が戻るべき、天にある家。 

 

それは、非の打ち所がない、完璧な家。

喜びに溢れた場所。

 

涙も、苦しみも、悲しみも、罪もない。

私達の想像を超えるほど、美しいところ。

 

 

 

 

それを思うと、

なんだか安心する。

 

 

 


"わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。
もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。
あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。

わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、
また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。
わたしのいる所に、
あなたがたをもおらせるためです。"

 

ヨハネ福音書 14章1~3節

 

恐れる時の祈り

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「自分は、殺されるかもしれない」

そこまでの恐怖を味わうことはないかもしれないが、

私達はいつも何かしらを恐れてしまう。

窮地に立たされることもある。

 

 

創世記に出てくるヤコブは、

兄のエサウから長子の特権を奪い、殺されそうになり、遠くへ逃げた。

その何十年も後に、久しぶりに兄のエサウに会いに行くときに

大きな恐れの中にあった。

 

「会ったら、兄に殺されるかもしれない。」

 

これから起こることに不安を覚えていた。

大きな恐れの中にあった。

 

その時にヤコブが神様に祈った言葉。

 

 

"そうしてヤコブは言った。

「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。

かつて私に『あなたの生まれ故郷に帰れ。

わたしはあなたをしあわせにする』と仰せられた主よ。


私はあなたがしもべに賜ったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です。

私は自分の杖一本だけを持って、このヨルダンを渡りましたが、

今は、二つの宿営を持つようになったのです。


どうか私の兄、エサウの手から私を救い出してください。

彼が来て、私をはじめ母や子どもたちまでも打ちはしないかと、

私は彼を恐れているのです。

あなたはかつて

『わたしは必ずあなたをしあわせにし、あなたの子孫を多くて数えきれない海の砂のようにする』

と仰せられました。」"


創世記 32章9~12節

 

 

この祈りから私達もどう祈るべきか学ぶことができる。

 

1、神様の約束を思い出す。

そして、その変わらない約束を握りしめる。

 

2、自分は受けるに足らないものだと認める。

全ては神様の恵みによって与えられたものだから。

 

3、神様が自分によくして下さったことを思い出す。

神様からの恵みを数える。

 

4、自分恐れを包み隠さず、神様に伝える。

必ず神様は聞いてくださる。神様はすでにご存知だけど、喜んで私達の祈りを受け止めてくださる。

 

5、神様が必要なことを認める。

自分だけでは解決できない。神様ご自身が働いてくださるように。

 

 

他にも学べることがあると思うけど、

 

個人的には、

2と3が今の私の祈りには足りないかなと思う。

 

当たり前の毎日の中に、感謝すべきことは沢山あるのに、

まるで自分でそれを得たかのように思ってしまう。

 

でも、本当は、

全ての良いものは神様から与えられて、

私自身はそれらを受ける価値のあるものではない。

 

ただ、神様の恵みゆえに、与えられた。

 

 

 

日々の祈りを、

神様が豊かに導いてくださいますように。

 

大盾のような愛に囲まれて

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"主よ。

まことに、

あなたは正しい者を祝福し、

大盾で囲むように愛で彼を囲まれます。"


詩篇 5篇12節

 

 

 

私達は正しくない。

正しい行いしていたとしても、その動機をしらべてみるど、

自己中心な思いが混じっている。

 

0.000001%でも不純な動機があるならば、

神様の前で正しいものとされない。

 

 

そもそも、完璧な行いだけの人生は不可能。

嘘もつくし、失敗もするし、分かっていても間違えてしまう。

 

でも、

エス様は罪一つない、間違え一つない、完璧な人生を過ごされた。

その正しさを、イエス様を信じる人に着せてくださる。

 

その、義、正しさの衣を着ているが故に、

私達は受けるに値しないのに、神様の祝福を受けて、

愛で私達を囲まれる。

 

 

想像してみると、美しい絵。

大盾で囲むように、神様の愛で囲まれている自分。

全ての危険から守ってくれる愛の大盾。

何も乗り越えてくることがない、いっぱいの愛。

大盾の内側で、

安心して、

愛を受け取る。



どこにいっても、

いつになっても、

大きな愛に囲われている。

 

 

 

がっかりした時に読みたい聖書のみことば

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"そればかりではなく、

患難さえも喜んでいます。

それは、患難が忍耐を生み出し、
忍耐が練られた品性を生み出し、

練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。"


ローマ人への手紙 5章3~4節

 

 

 

"今の時の軽い患難は、

私たちのうちに働いて、

測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。"


コリント人への手紙 第二 4章17節

 

 

 

 

"人は心に自分の道を思い巡らす。

しかし、

その人の歩みを確かなものにするのは主である。"


箴言 16章9節

 

 

 

"「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、

わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。--主の御告げ--


天が地よりも高いように、

わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、

わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。"


イザヤ書 55章8~9節

 

 

 

 

"私の兄弟たち。

さまざまな試練に会うときは、

それをこの上もない喜びと思いなさい。
信仰がためされると忍耐が生じるということを、

あなたがたは知っているからです。"


ヤコブの手紙 1章2~3節

 

 

 

 

"今の時のいろいろの苦しみは、

将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、

取るに足りないものと私は考えます。"


ローマ人への手紙 8章18節

 

 

 

 

"主はいつくしみ深い。

主を待ち望む者、主を求めるたましいに。"


哀歌 3章25節

 

 

 

 

"あなたがたは、私に悪を計りましたが、

神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。

それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。"


創世記 50章20節

剣よりも鋭い

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子供の様子や態度を見ていると、

何を考えてそんな行動をしているのか察しがつく。

 

良い動機からだったらいいが、

 

わがままや自己中心から

良くない態度や行動にでることが度々ある。

 

母親として、その場をなんとかやり過ごすこともできるが、

また同じ問題にあたる。

 

 

子供の行動の奥にある、心の中の思いや考えを取り扱う必要がある。

行動を修正するだけでは、根っこの心の部分は何も変わらない。

 

 

神様のことば、

福音と照らし合わせて、

子供の心を養い、育てていく。

 

何度も。繰り返し繰り返し。

 

 

 

 

頑なで、わがままな心を、

剣よりも鋭い神様のことばで、心の考えやはかりごとを判別し、

良いことと悪いことを明らかにする。

悪いことを選んでしまう私達は、

赦しが必要。

変えられるように、助けが必要。

 

エス様はそれらを、必ず与えてくださる。

 

 

 

でも、

その福音と赦しが一番必要なのは、

 

母親である私だ。

 

 

 

 

"神のことばは生きていて、

力があり、両刃の剣よりも鋭く、

たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、

心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。"


ヘブル人への手紙 4章12節

3.11

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10年前のこの日を覚えながら、

 

この聖書の言葉を噛みしめる。

 

 

あの時も、

今も、

変わらない真実。

 

 

 

"神はわれらの避け所、また力。

苦しむとき、そこにある助け。


それゆえ、われらは恐れない。

 

たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。
たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。

セラ"


詩篇 46篇1~3節

 

「自分には何もない」と感じるとき

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「大きくなったら何になる?」
よく、小さい頃に聞かれた質問だけど、
今考えると疑問に感じる。

 

大人になったら、何かにならなければいけないのか。
何か特別なことをできる人にならなければいけないのか。
そのままの自分じゃダメなのか。
良い仕事につくことが、人生のゴールなのか。

 


仕事=アイデンティティ

という考えがどこか、根本にある気がする。


もちろん、仕事をすること自体は良いことだけど、
自分のアイデンティティを仕事のうちに置くことは危険が潜む。

 

 

最近ある女の人と話をしていた。
彼女は仕事を辞めて、
「自分には何もない」
と感じ、悩んでいるようだった。

 

 

私も似たような思いをしたことがある。
大学時代からある職業につくために一緒懸命に勉強し、
卒業して、その仕事についた。
そしてしばらくして、退職し結婚、出産を経験した。
周りより早く結婚し、母親になったので、
こう感じていた。

 

「周りの同じ年齢の友達は仕事をして活躍しているのに、

私は家で何をしてるんだろう。
おむつを交換して子供の世話をすることで

1日が終わっていく。」

 


私は何者でもなくなってしまった。

私の価値は、なくなってしまったのか。

 

 

そのように落ち込んだ原因は、

社会で誰かの役に立つことや仕事が、

自分のアイデンティティと思っていたから。


自分の才能、能力、他の人とは違う特別な部分が、

自分のアイデンティティだと信じていたから。

 

 

もちろん子育てをすることには大きな意味があり、神様に与えられた重要な使命だ。

 

じゃあ、今は、
「母親」であることがアイデンティティなのか?


いや、
いつかは子供達も巣立っていく。

自分のすること=自分のアイデンティティ
では、ないと思う。

 

 

 

じゃあ、
聖書にはアイデンティティについてどう書いてあるのだろう。

 

 

エス様を信じるものは、

「神様の子ども」
「キリストのうちにある者」。

 

自分は、「神の子ども」。

それがアイデンティティ

 

 

 

どういうことだろうか?


神様が、
ご自身のかたちに似せて、人間を造られた。
アダムとエバが、エデンの園で完全な生活を送っていたが、
神様にそむき罪をおかしてしまい、

園から追い出された。


その罪は、今でも私達に影響していて、
罪は、私達を神様から引き離してしまう。

神様は聖なる方であり、私達のうちには罪があるから。
そこには大きな隔たりがあり、その隔たりは自力で超えることができない。

 


しかし、イエス様がこの世に来られて、
十字架で私達の罪を背負われ、
身代わりに死なれ、

生き返られた。


罪に対する神様の怒りを、全て引き受けてくださった。


だからイエス様を通してのみ、
私達は赦される。


「神様の子ども」として
神様は喜んで私達を受け入れてくださる。

 

神様のこども、
王の娘、
神様に似せられたものとして造られた。
キリストのうちにある者。

キリストにつながれている者。

 

 

 


その聖書の言葉を
自分のものとして信じる時、

 

どんな人生の変化があっても、
どの人生のステージにあっても、
どんな状況にあっても、
自分が良い行いをできる時も、できない時も、


このアイデンティティは揺るがされない。

 

 


自分は「神様の子ども」


愛を受ける価値は自分にはないけれど、
他の人からどう評価されたとしても、
何ができても、できなくても、


自分は、
神に愛されてる、神の子なんだ。

 

 

 

 

 

 

"あなたがたはみな、

キリスト・イエスに対する信仰によって、

神の子どもです。"


ガラテヤ人への手紙 3章26節