聖書のみことば in Mom's Life

慌ただしい子育てライフの中に見つかる神様の恵みをつづる。

「自分には何もない」と感じるとき

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「大きくなったら何になる?」
よく、小さい頃に聞かれた質問だけど、
今考えると疑問に感じる。

 

大人になったら、何かにならなければいけないのか。
何か特別なことをできる人にならなければいけないのか。
そのままの自分じゃダメなのか。
良い仕事につくことが、人生のゴールなのか。

 


仕事=アイデンティティ

という考えがどこか、根本にある気がする。


もちろん、仕事をすること自体は良いことだけど、
自分のアイデンティティを仕事のうちに置くことは危険が潜む。

 

 

最近ある女の人と話をしていた。
彼女は仕事を辞めて、
「自分には何もない」
と感じ、悩んでいるようだった。

 

 

私も似たような思いをしたことがある。
大学時代からある職業につくために一緒懸命に勉強し、
卒業して、その仕事についた。
そしてしばらくして、退職し結婚、出産を経験した。
周りより早く結婚し、母親になったので、
こう感じていた。

 

「周りの同じ年齢の友達は仕事をして活躍しているのに、

私は家で何をしてるんだろう。
おむつを交換して子供の世話をすることで

1日が終わっていく。」

 


私は何者でもなくなってしまった。

私の価値は、なくなってしまったのか。

 

 

そのように落ち込んだ原因は、

社会で誰かの役に立つことや仕事が、

自分のアイデンティティと思っていたから。


自分の才能、能力、他の人とは違う特別な部分が、

自分のアイデンティティだと信じていたから。

 

 

もちろん子育てをすることには大きな意味があり、神様に与えられた重要な使命だ。

 

じゃあ、今は、
「母親」であることがアイデンティティなのか?


いや、
いつかは子供達も巣立っていく。

自分のすること=自分のアイデンティティ
では、ないと思う。

 

 

 

じゃあ、
聖書にはアイデンティティについてどう書いてあるのだろう。

 

 

エス様を信じるものは、

「神様の子ども」
「キリストのうちにある者」。

 

自分は、「神の子ども」。

それがアイデンティティ

 

 

 

どういうことだろうか?


神様が、
ご自身のかたちに似せて、人間を造られた。
アダムとエバが、エデンの園で完全な生活を送っていたが、
神様にそむき罪をおかしてしまい、

園から追い出された。


その罪は、今でも私達に影響していて、
罪は、私達を神様から引き離してしまう。

神様は聖なる方であり、私達のうちには罪があるから。
そこには大きな隔たりがあり、その隔たりは自力で超えることができない。

 


しかし、イエス様がこの世に来られて、
十字架で私達の罪を背負われ、
身代わりに死なれ、

生き返られた。


罪に対する神様の怒りを、全て引き受けてくださった。


だからイエス様を通してのみ、
私達は赦される。


「神様の子ども」として
神様は喜んで私達を受け入れてくださる。

 

神様のこども、
王の娘、
神様に似せられたものとして造られた。
キリストのうちにある者。

キリストにつながれている者。

 

 

 


その聖書の言葉を
自分のものとして信じる時、

 

どんな人生の変化があっても、
どの人生のステージにあっても、
どんな状況にあっても、
自分が良い行いをできる時も、できない時も、


このアイデンティティは揺るがされない。

 

 


自分は「神様の子ども」


愛を受ける価値は自分にはないけれど、
他の人からどう評価されたとしても、
何ができても、できなくても、


自分は、
神に愛されてる、神の子なんだ。

 

 

 

 

 

 

"あなたがたはみな、

キリスト・イエスに対する信仰によって、

神の子どもです。"


ガラテヤ人への手紙 3章26節