聖書のみことば in Mom's Life

慌ただしい子育てライフの中に見つかる神様の恵みをつづる。

罪悪感・責められる思い・申し訳なさ

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「あちゃー。子供がキックバイクを他の人の車に当ててしまった」


友達のうちに遊びに行った時、
息子がキックバイク(ペダルなしの自転車)に乗っていた。
少し距離のあるところから見守っていたら、
ふらっとよろめき、
友達のご近所さんの車に少し当たったようにみえた。


「これはまずい。ただの見間違いであって欲しい」

 

と思いながら

息子に恐る恐る聞いてみると、
怖々と、こくんと頷いて、当たったことを肯定した。

 

 


「うわー。やってしまったー」

 


認めるのも恥ずかしいが、
心の中で一瞬、隠したい気持ちがよぎった。


それと同時に
ダメだ、ちゃんと話して対処しなきゃ、と自分を正す思いに突き動かされて、
不安、焦り、困惑、申し訳なさの中、
すぐにその車の家のベルを鳴らしにいった。

 


当の息子は、恐ろしくて恐ろしくて必死に私を止めようとするので
車で待機させた。

 

 

その家へ向かう私の気持ちは、ほふられる羊のようだった。

 

 

 

 

結果としては、
その家の方と確認したら、傷はついてなかった。
その方は怒る素振りも見せず、
連絡先の交換も必要ないと言われたが、

 

後になって
申し訳ない気持ちでどうしようもなかったので、
その日の晩に
お詫びと連絡先の書いた手紙、
お菓子折りを
主人に持っていってもらった。

 

 


とりあえず、大ごとにならずに済みそうだ。
神様の憐れみに感謝。

 

 


この、
息子の不注意による事件は
もちろん息子自身では対処できることはできないので、


親である私と夫が負うべき責任を背負った。

 

その責任を負うのにかかったコストは

 

・感情的なコスト(心配、不安、困惑、恐れ、いてもたってもいられない程の申し訳なさ)
・何度も丁寧にお詫びすること(謙虚に赦しを求める

・お詫び状を書くためのリサーチと時間
・菓子折り代(大した額ではないが)
・友達とそのご近所さんとの関係の懸念
・友達家族へのお詫びとやり取り

などなど。

 

 

ほんの一瞬の過ちを償うのに
多大な精神的労力、感情的労力、
具体的な行動、そのための知恵が必要だった。

 

 

 

 

それをしながら
思った。

 


私のおかす間違いや過ち。
それは、ただ他の人への心ない言葉、意図せずに傷つけてしまうこと。
または、自分の家族に対して、怒りやネガティブな態度をぶつけること。

 

いろいろな過ち。過失。

 

 

その過ちの原因は、
自分の罪や、
ただ単に不完全な人間の性質によることからくるもの、
いろんな原因がある。

 

 


しかし、
自分の力で、自分の全ての過ちの責任をとることはできない。

 


その過失の重圧の中、
おしかかる責められる思いの中、

 

 

天のお父さんである
神様が、
すべての過失と責任を
あわれみのまなざしでご覧になられ、

 

私が担いきれない、私の過失への責めを
神様が解決して下さった。

 

 


一人息子であるイエス様を送り
エス様の上に、私の過失、過ちの責めを全て背負わせた。


そして、
エス様はそれを抱え、よみに下り、
私の背負うべき責めをゼロにして、
また、生き返られた。

 

 

生き返られたからこそ、
希望がある。


そこには全ての責めから解放された自由があるから。

 

 

 

 

 

"こういうわけで、

今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
なぜなら、

キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、

罪と死の原理から、あなたを解放したからです。"


ローマ人への手紙 8章1~2節

 

 


"しかし、

彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、

私たちの咎のために砕かれた。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、

彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

私たちはみな、羊のようにさまよい、

おのおの、自分かってな道に向かって行った。

しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。"


イザヤ書 53章5~6節