聖書のみことば in Mom's Life

慌ただしい子育てライフの中に見つかる神様の恵みをつづる。

祖父の死

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先日、おじいちゃんがコロナで亡くなった。

 

遠方の田舎の老人ホームに入居中、
感染が判明して、
入院した翌日だった。

 

子供の頃に会って以来、ずっと会ってなく疎遠だった。


それでも私達、孫に会えた時のおじいちゃんの笑顔は
今でも、はっきり覚えている。

 

近い家族、数人だけで、
お通夜とお葬式をしたらしいが、
コロナのため火葬にも立ち会えず、
顔を見ることもできなかったらしい。

 

残念ながら、
私も参加をゆるされなかった。

 


本当にショックで、
悲しく、
胸が苦しい。

 

 

 


今、ある思いは、
「本当に愛すべき人を、愛せなかった。」

 

自分の近くにいる隣人を愛することばかりに気を取られて、
本当に愛を示すべき家族に愛を示せてなかった。

 

 

痴呆症で私を覚えてなくても、
携帯がないから直接連絡できなくても、
遠いため子供達を連れて会いに行けなくても、
手紙を書いても、目が見えないから読めなくても、

 

 

ハガキ一枚、
写真一枚だけでも、
送れば良かった。

 

本当に、悔やまれる。

 

 


そして
家族の死を経験すると、
生と死の現実をとても身近に感じる。

 

いつかは自分も、
死を経験するときがくる。

 

死の先には何があるのか。

 

 

それは、
実際に死を経験されて、
よみがえられた、イエス・キリストに聞くのが一番だ。

 

 

 

 

 

今回の、おじいちゃんの死を通して思う事は
色々あるが、

 

大切な人が、亡くなる時、
「あぁ、あの人を十分に愛することができた。」
と、感じる人は滅多にいないのかもしれない。

 


きっと、
「もっとこんな事や、あんな事をしてあげれば良かった」
「こんな事を伝えておくべきだった」
「もう一度あの場所に一緒に行きたかった」


というやりきれない思いが残るものなのかもしれない。

 


なぜなら、私達人間には、
他者を、完璧に、十分に愛することができないから。

 

それは、
ただ単に、
私達が、
どんな事においても限界を持つように、造られた人間だからかもしれない。
だから愛することにおいても完全にすることはできない。

 


または、
自分のプライド、弱さ、罪のゆえに
他者を愛するのを難しく感じるのかもしれない。

 

 


しかし、
良い知らせがらある。

 

私達、人の行いや思いは
どんなに頑張っても
不十分で、罪で汚れている。

 

しかし、
イエス・キリストが生きた命は
罪ひとつない、聖く、全て正しいもの。


キリストを信じる人は、
キリストとひとつになり、
キリストの正しさはその人のものとなる。

 

神様がその人を見るとき、
キリストの正しさ(義)を通して、
その人を見る。

 

だから、
罪をおおい隠す、義の衣を身にまとう人は、
神様に受け入れられ、
「私の目には、あなたは高価で尊い」と言ってもらえるのだ。

 

 

 

 

 

今、心から願うことは、

おじいちゃんが、
平安のうちに神様と共にいることと、

 

 


これを読まれた方が、
イエス・キリストの良い知らせを
吟味し、
受け入れて下さること。

 

 

"神は、実に、

そのひとり子をお与えになったほどに、

世を愛された。

それは御子を信じる者が、

ひとりとして滅びることなく、

永遠のいのちを持つためである。"


ヨハネ福音書 3章16節