聖書のみことば in Mom's Life

慌ただしい子育てライフの中に見つかる神様の恵みをつづる。

失敗談(zoom編)

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子供に大声で怒鳴ってしまった。

 

いつもより大きな怒りで言ってしまい、
敏感な息子は、怖がって布団に隠れて泣いていたらしい。

 

 


こんな状況だった。 

 

 

夜8時からズームで教会のスモールグループがあり、
他のママさん達と、近況を話し合い、祈り合う時がある日だった。


なかなか他のママとじっくり話ができないコロナ禍生活なので、
その時間を楽しみにしていた。

 

その日の日中には、
「ママはズームの時間が夜8時からあるからね」と、家族に何度か伝え、
そのための協力と理解を、子供達にお願いしていた。

 

 

夕方からはフル稼働。

ズームのグループが始まるまでに、
夕飯、片付け、皿洗い、お風呂、着替え、歯磨き。
あれやこれやとこなしていき、
子供達3人を、あと寝るだけ、という状態にセットする。

 

 

 

さぁ、いざ、
楽しみのズームの時。

 

 

のはずが、、、

 

いつもは9時半過ぎに寝る子達が
眠い眠いと言って
何度も部屋に入ってくる。

 

別の部屋に準備した布団に寝て、と言っても
何故か気に入らないらしく、
何度も邪魔しに入る。

 

他のミーティングだったら、
気にしなかったかもしれないけど、
楽しみにしてた分、
イライラが募る。

 

そして、
協力してくれるはずの夫も、
ちょこちょこ部屋に入ってきて、話しかけてくる。

 

 

「こんなに周りが騒がしくて、自分の問題を打ち明けたり、心静かに祈れるかーーー(激怒)???!!!」

私の心の叫び。

 

 

 


私が怒鳴った言い訳はいくらでもある。

 

・子供達が協力的でなかった。
・家族の誰かがズームする時は、いつも私はその人の邪魔にならないよう気をつけてる。→だから、ママにも協力して欲しい。

などなど。。。

 

 

しかし、怒りに駆られ、
その怒りの気持ちを発散するために、
大声で怒鳴ったことは、

明らかに悪く、罪深い反応だった。

 

 

しかも、怒りの裏にあったのは、
自分のしたいことをやり遂げたいという自分中心な考え。
他者を優先して愛するような行動を取れない、自分の頑なさ。
自分の計画通りに、状況や他者をコントロールすることを、神様より大事にしてしまう、偶像礼拝。

 

怒りの奥に様々な罪の問題があった。

 

 


その事件の後、
燃えるような怒りが収まり、
後になって、
子供達に謝りに行った。


・怒鳴ってしまい、みんなを傷つけたこと
・どれだけママが楽しみにしていて、ズームに集中できなかったことがどれだけ悲しかったか
・ママの心の中の自己中な思いや頑固な心

 


それらを伝えて、
最後に。

 

「ごめんね。
ママも罪人なんだ。
だから、ママもイエス様が必要なの。
ママが怒って怒鳴った事、赦してくれる?」

 


子供達は、
すぐに赦して、ハグしてくれた。

 

 

 

失敗ばかりする私を、
赦して
受け入れて
愛してくれる。


そんな子供達に、夫に、神様に、
ありがとう。

 

 

何度やらかしてしまっても、
また関係を修復して、
リスタートする機会を与えて下さる神様。

 

赦しと和解を与えてくれる神様に、
感謝。

 

 


"もし、
私たちが自分の罪を言い表すなら、
神は真実で正しい方ですから、
その罪を赦し、
すべての悪から私たちをきよめてくださいます。"

 

ヨハネの手紙 第一 1章9節

 

祖父の死

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先日、おじいちゃんがコロナで亡くなった。

 

遠方の田舎の老人ホームに入居中、
感染が判明して、
入院した翌日だった。

 

子供の頃に会って以来、ずっと会ってなく疎遠だった。


それでも私達、孫に会えた時のおじいちゃんの笑顔は
今でも、はっきり覚えている。

 

近い家族、数人だけで、
お通夜とお葬式をしたらしいが、
コロナのため火葬にも立ち会えず、
顔を見ることもできなかったらしい。

 

残念ながら、
私も参加をゆるされなかった。

 


本当にショックで、
悲しく、
胸が苦しい。

 

 

 


今、ある思いは、
「本当に愛すべき人を、愛せなかった。」

 

自分の近くにいる隣人を愛することばかりに気を取られて、
本当に愛を示すべき家族に愛を示せてなかった。

 

 

痴呆症で私を覚えてなくても、
携帯がないから直接連絡できなくても、
遠いため子供達を連れて会いに行けなくても、
手紙を書いても、目が見えないから読めなくても、

 

 

ハガキ一枚、
写真一枚だけでも、
送れば良かった。

 

本当に、悔やまれる。

 

 


そして
家族の死を経験すると、
生と死の現実をとても身近に感じる。

 

いつかは自分も、
死を経験するときがくる。

 

死の先には何があるのか。

 

 

それは、
実際に死を経験されて、
よみがえられた、イエス・キリストに聞くのが一番だ。

 

 

 

 

 

今回の、おじいちゃんの死を通して思う事は
色々あるが、

 

大切な人が、亡くなる時、
「あぁ、あの人を十分に愛することができた。」
と、感じる人は滅多にいないのかもしれない。

 


きっと、
「もっとこんな事や、あんな事をしてあげれば良かった」
「こんな事を伝えておくべきだった」
「もう一度あの場所に一緒に行きたかった」


というやりきれない思いが残るものなのかもしれない。

 


なぜなら、私達人間には、
他者を、完璧に、十分に愛することができないから。

 

それは、
ただ単に、
私達が、
どんな事においても限界を持つように、造られた人間だからかもしれない。
だから愛することにおいても完全にすることはできない。

 


または、
自分のプライド、弱さ、罪のゆえに
他者を愛するのを難しく感じるのかもしれない。

 

 


しかし、
良い知らせがらある。

 

私達、人の行いや思いは
どんなに頑張っても
不十分で、罪で汚れている。

 

しかし、
イエス・キリストが生きた命は
罪ひとつない、聖く、全て正しいもの。


キリストを信じる人は、
キリストとひとつになり、
キリストの正しさはその人のものとなる。

 

神様がその人を見るとき、
キリストの正しさ(義)を通して、
その人を見る。

 

だから、
罪をおおい隠す、義の衣を身にまとう人は、
神様に受け入れられ、
「私の目には、あなたは高価で尊い」と言ってもらえるのだ。

 

 

 

 

 

今、心から願うことは、

おじいちゃんが、
平安のうちに神様と共にいることと、

 

 


これを読まれた方が、
イエス・キリストの良い知らせを
吟味し、
受け入れて下さること。

 

 

"神は、実に、

そのひとり子をお与えになったほどに、

世を愛された。

それは御子を信じる者が、

ひとりとして滅びることなく、

永遠のいのちを持つためである。"


ヨハネ福音書 3章16節

 

 

 

今年の目標。神様の目的。

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新年に掲げた目標、早速挫折している。


子供達と家で英語で話すこと。
子供達と一緒に聖書を読むこと。

 

すぐに挫折することは想定内。
繰り返し繰り返し、その目標に戻り、
チャレンジすることが今年の目標。

 


しかし、
まず、
基本に戻ろう。

 


自分の目標を考える前に、
年の始めにもっと大事なことを確認しよう。

 

 

自分のしたいこと、達成したいことは置いておく。

まずは、

神様が私達にして欲しいは何だろう。

私達に望んでおられることは何だろう。

 

少し言い換えると、

「神様が私達を造られた目的は何だろうか」

ということ。

 


人は自分の人生の意義を、様々な形で定義しようと試みる。


「幸せになるために、生まれた」
「良い大学へ行き、良い会社へ就職して、素敵な人と結婚する」
自己実現
「好きなことを見つけて、楽しむ」
「子供に良い教育を与えて、才能ある子に育てる」

 


どれも悪いことではない。

 

しかし、
それをやり遂げて、心の底から、満たされるだろうか。
そこに変わらない喜びが見つけられるだろうか。

 

 


神様は本来、どんな目的をもって私達を造られたのだろうか。

 


プロテスタントの教会でよく使われる、
聖書の要約みたいな本、『ウェストミンスター小教理問答』には
このように書かれている。

 


『Q1、人のおもな目的は、何ですか。

 

答え、
人のおもな目的は、
神の栄光をあらわし、
永遠に神を喜ぶことです。』

 

 

では、
・神の栄光をあらわす
・永遠に神を喜ぶ
とはどういう意味なのだろうか。

それぞれ考えてみる。

 

 

 

1.【神の栄光をあらわす】

 

すごく平たくいうと、
神様の素晴らしさを、自分を通して、映し出す、
ということだと思う。

 

月が太陽の光を反射して、光っているように。

 


"こういうわけで、
あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、
ただ神の栄光を現すためにしなさい。"
コリント人への手紙 第一 10章31節

 

 

生活全てにおいて、神様の光を輝かせるためにする。

 

すべてのことが、
神から発し、(from him)
神によって成り、(through him)
神に至る。(to him)

 


神様のために、
料理をして、洗濯をして、
オムツをかえ、宿題を手伝い、
あちこちに散らかっているオモチャや紙くずを繰り返し拾い、
泣き叫ぶ子供を抱き抱え、慰める…。

 

 

そういう毎日のママの仕事を、私に与えたのは神様で、(from him)

 

それをこなすのに必要な力や知恵、励ましを毎日与えて下さるのも神様。(through him)

 

そして、

それらは全て神様の栄光をあらわすために、
神様のためにする。(to him)

 


2. 【永遠に神を喜ぶ】

 

"まことに、その人は主のおしえを喜びとし、
昼も夜もそのおしえを口ずさむ。

その人は、水路のそばに植わった木のようだ。 
時が来ると実がなり、その葉は枯れない。
その人は、何をしても栄える。"

詩篇 1篇2~3節

 


聖書のみことばを自分の喜びとする。
そして、
いつも御言葉を思いめぐらす。

 

満足と喜びをもって、
神様のうちに休む。

 


しかし、
不思議なことに、
喜びすら、自分で作り出せない。

「よし、喜ぼう」と気合を入れて
自分の意思で喜ぶ人はなかなかいない。

何かをする時に喜びを感じる。
喜びというものは、自分で作り出すものではなく、
与えられるものなのではないだろうか。


そしたら、
まず、
神様を喜べる、その喜ぶ心が与えられるように
求めよう。

 

 

 

"また、子が魚を下さいと言うのに、
だれが蛇を与えるでしょう。
してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、
自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。
とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、
どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。"

 

マタイの福音書 7章10~11節

 

 

 

2021年も、

「神の栄光をあらわし、
永遠に神を喜ぶこと」 
が、

その時その時に、どういう意味か探り、
自分が造られた目的を満たしていければな、と思う。

「非常事態」の中での平安

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非常事態宣言が出て、
自分の生活にどんな変化が起こるか、
今後どうなるのか、
色んなことを心配してしまう。

 


前にもあったし
学校が休校にならないなら、
あまり変わらないかな、

という気持ちもよぎる。

 

 

でも
やはり不確実なことも多く、

見えない不安や恐れにとらわれてしまう。

 

 

 

こんな時こそ、
聖書をひらき、
そこに書かれている、
変わることがない真実の言葉を
自分自身に語りかけよう。

 

 


神様は、
いつも私達とともにおられる。

 

どんな時でも。


非常事態宣言が出される、特異な時にも。

 

この瞬間も。

 


エス様は
遠くで傍観しておられない。

 

いつも、
すぐそばにいて下さる。

 


私が歩けない時も、
背負ってくださる。

 

 

 

その方は、
絶対的に良いお方。

 

 

あわれみ深く、
優しく、
恵み深い、
愛の方。

 


聖く、
美しく、
正しく、
完全であるお方。

 

 


決して変わらず、
決して見捨てず、
決して間違えず、
決して嘘をつかないお方。

 

 


全てを知っていて、
絶対的な力と権威を持ち、
全てを御手の中におさめている。

 

今のこの状況も。

 

 


全ては神様の主権のもと、
起こっていること。

 

 


そして

神様がどんな方なのかを思い巡らす時に
心が平安で満たされる。

 

 

 

 

"最後に、兄弟たち。
すべての真実なこと、すべての誉れあること、
すべての正しいこと、すべての清いこと、
すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、
そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、
そのようなことに心を留めなさい。

 

あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。


そうすれば、
平和の神があなたがたとともにいてくださいます。"

 

ピリピ人への手紙 4章8~9節

 

夫の一番のチアリーダーになる

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他人を褒めることは難しくないが
家族を褒めることは難しさを感じる。


ことさら、近い関係にある夫への態度は批判的な目で見がちになってしまう。

 

 

しかし、
創世記で神様がエバに与えた重要な役割は

『ふさわしい助け手』だと書いてある。


ふさわしい助け手になるために、
夫が励ましや肯定されることを必要としている時、
励ましの言葉をもって、褒めてあげたい。

 

 

"神である主は仰せられた。
「人が、ひとりでいるのは良くない。
わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」"

創世記 2章18節

 

 

 

神様が作られた夫の素晴らしい部分を認め、
言葉として伝え、感謝を伝える。
夫の才能や賜物、強みを褒める。


そうするとその良い部分が

さらに輝くように、

伸びるように、

手伝えているように感じる。

 

 

それが出来なかった時期があるからこそ、
身に染みて思う。

 

 


褒めるのが苦手な私は
すこし大げさにでも褒めるようにしばらく試みた。
そしたら、逆に自分の見方も肯定的な視点に変えられ、
神様の愛が夫婦関係に増し加えられたように思う。

 

 


夫の『ふさわしい助け手』になる。
夫の一番のencouragerであり、supporterでありたい。
夫の一番のチアリーダーになりたい。

 

 


Not tearing down, but building up each other
(お互いを打ち壊すのではなく、建て上げる)

 

そんな関係をますます目指したい。

 

 

 


しかし、
私達のうちにある罪は、このような思いを起こさせる。

 

「自分こそ高く、より優位な位置にいたい。」

「相手よりも自分が大事。神様よりも自分が大事。」

「自分こそが正しい。相手が間違ってる。」

 

 

私達の内にある罪は、
人間関係、特に夫婦関係を壊してしまう。

 

 

 

だからこそ、


イエス・キリストの十字架の赦しが必要。
そして三位一体の御霊が、
私達を日々新しく造り変えて、成長を与えてくださる。

 

その、人を変える力を持っている神様だからこそ、

夫の一番のチアリーダー

ふさわしい助け手になるよう、


私を変え続けて下さると信じる。

 

 

 

 


"ですから、
あなたがたは、今しているとおり、
互いに励まし合い、
互いに徳を高め合いなさい。"

 

テサロニケ人への手紙 第一 5章11節

Silent night, Holy night

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キリストが生まれた時、本当にsilent nightだったのかな。

 


馬小屋の中で生まれて、
汚くて臭い、

飼い葉桶の中に置かれたイエス様。

 

 


出産を経験した者として思うのは、
産まれた日は、
マリアの産みの苦しみの声、
動物達の鳴き声、
初めて出産に立ち会い、パニックになるヨセフ…。

 

嵐のような一日だったんじゃないかと想像する。


産後直後もきっとマリアにとっては大変だったんだろうな。
ちゃんと休むベッドもなく。


なんて、現実的に考えてしまう。

 

 

でも、より重要であり、ある意味もっと現実的なのは、

 

「救い主である、イエス様が赤ちゃんとして生まれた。」
ということ。

 


それは確かで、
それこそが、クリスマスの中心のメッセージ。
それこそが、クリスマスを祝う理由。

 


美しい賛美歌を胸に、


エス様が、私達のためにこの世に来てくださったことに感謝する。

 

 

 

 

きよしこの夜 / Silent Night

『清しこの夜 星は光り
 救いの御子は
 馬糟(まぶね)の中に
 眠り給う、
 いと安く』

 

 

Silent night, holy night
All is calm, all is bright
Round yon virgin mother and child.
Holy infant, so tender and mild,
Sleep in heavenly peace,
Sleep in heavenly peace.

Names of Christ

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子供が産まれて、名前をつける時
親は熱心に、そして慎重に名前を選ぶ。
こんな人になってほしいと願いを込めて。

 

 

名前は非常に大事なものだ。
その人自身を映し出すもの。

 


聖書には、色んな神の名が出てくる。
それらはどれも、神様のご性質を表す大事な名前だ。

 

 

下記はクリスマスの時期に、教会でよく聞く聖書箇所。

ここにも、イエス様の名が出てくる。

 

 

これらの名は、私達母親にとってどんな意味があるのだろうか。

 

 


"ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。
ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
主権はその肩にあり、
その名は

「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」

と呼ばれる。"
イザヤ書 9章6節

 

 

“For to us a child is born,
to us a son is given;
and the government shall be upon his shoulder,
and his name shall be called Wonderful Counselor, Mighty God, Everlasting Father, Prince of Peace.”
- Isaiah 9:6

 

 

 

「不思議な助言者」
Wonderful Counselor

 

「力ある神」
Mighty God

 

「永遠の父」
Everlasting Father

 

「平和の君」
Prince of Peace

 

 

 

それぞれ、私のママライフにおいてどんな意味があるか、考えてみる。

 

ちなみに日本語は新改訳、2003年版。
英語はESV (English Standard Version)

 

 

 

 


【不思議な助言者 Wonderful Counselor】

 

日々の生活の中で迷うことはたくさんある。

 

・季節の変わり目に、幼稚園に送り出す時に子供に何を着せるか。
(自分でまだ気温に合わせて調整できないから、朝のチョイスが重要)

・小学生の子供が算数でつまずいていて、何度説明しても理解してくれない。これ以上どう説明したらわからない。

・2歳の娘が昼寝したがらない。でも夕方の忙しい時間に眠くなって機嫌が悪くなって困っている。どうすべきか。


などなど。
小さいことから大きいことまで、
毎日、悩まされることは沢山ある。

 

色んな助言をくれる人がいる。
あまり役に立ちそうもない助言をくれる人もいるし、
「まさしく、それが聞きたかった!」
というような、的を得た助言をくれる人もいる。

 

 

神様は、
ただの助言者ではなく、
もっとも賢い助言者。
不思議で、素晴らしい助言者。
何も分からないことがなく、人間を遥かに超えた知恵を持つWonderful counselor.

 

 

人間には、
知能が高いけど、愚かな人もいる。


しかし神様は
知能も無限で、賢さも無限。

 

そんな神様が、
聖書を通して、人を通して、様々な形で、
素晴らしい助言を与えてくださる。


 

 

 


【力ある神 Mighty God】

 

私達には限界がある。
全てのことをする力がない。

 

家事や育児ですでに疲れている時に
子供達がケンカをしだすと
限界を感じる。
「これ以上、見きれない」

 

また、

子供が夜中に何度も起きて寝不足で頭痛がする日は、
身体の弱さを感じ、
いつも通りするべきことをすることができない。

 

 

自分は弱い者だ。
限りがある。

 


しかし
神様は、全能の神様。
どんなことをする力を持っている。
出来ないことなどない。
疲れ果てて、まどろむことも、眠ることもない。

 

全能だからこそ、
アブラハムへの約束、
そしてイエス様を信じる者への、
聖書に書かれている全ての約束を忠実に果たすことができる。

 


また、
私達が召されていることを
成し遂げる力を、
尽きることなく
与えてくださる。

 

 

 

 

【永遠の父 Everlasting Father】

 

多くの父親の役割は、

 

家族の必要を満たす
家族を守る
家族を愛する

ということかもしれない。

 

 

エス様も
優しい父親が、家族のためにするように、
理想的な国の王が、民のためにするように、

 

私達の必要を満たし、
私達を守り、
私達を愛してくださる。

 

しかも、永遠に。

 


私達の子供達がイエス様を信じるなら、
彼らにとっても、永遠の父となって下さる。
私は不完全な保護者であり、愛を示せない時がある。
しかし、イエス様が子供達の、永遠の父となって下さるなら、心配はいらない。

 

 

 

 

 

【平和の君 Prince of Peace】

 

子供達の冬休みがそろそろ始まり、
朝起きてから寝るまで、
はしゃぎ声や泣き声、イヤイヤ期の不機嫌な声、ケンカをする声が飛び交う。

 

そんな状態の家の中にずっといて、
ケンカの仲裁に入り、お腹が空いて不機嫌な子供達に食べさせ、静まる間もないまま家事をこなし…。

 

一体、

今日1日で何分、平和や平安が私の心の中にあっただろう。

 

 

しかし、そんな中でも
エス様は私の内に平和をもたらすことができる。

 

そして、
人間関係の中における平和も、
与えてくださる。

 

神様と、私達罪人の間における平和も。

 

罪によって分断されていた私達と神様との関係。
イエス・キリストが成し遂げてくださった十字架のゆえに、
神様との平和が与えられ
キリストを通して、個人的な関係を築くことができる。

 

 


“For to us a child is born,
to us a son is given;
and the government shall be upon his shoulder,
and his name shall be called Wonderful Counselor, Mighty God, Everlasting Father, Prince of Peace.”

 

- Isaiah 9:6

 

 

 

メリークリスマス!